大人の人見知り②



人見知り=社交性がない、初対面の人と話すのが苦手
人見知り=自分に自信がない、本当の自分がだせない、何を話していいかわからない
人見知り=一人が好きである

人見知りといっても人によって使い方が違うなと思う。
人見知りについて考えてみたくなったのは、
人見知りは甘えという阿川佐和子さんの本を立ち読みしたから。

「脱ひきこもり」という本で著者の森本邦子さんが6歳以前の家庭環境がひきこもりになる要素を育てると書いているのを読んだから。

そして大勢が集う場でものおじせず、しゃべって、笑わせ、自分も楽しんでいる友人をみて、「どうしたらあんなふうな人が育つんだろう」とつぶやいたら、横にいた別の友人に「大勢の家族と親戚にもまれて育っているから鍛えられているんだよ」と言われたのを思い出したから。

人見知りといっても、本人の気持ちしだい。
この人が人見知り?という場合が多いのもそのせいなのかなと思う。
お笑い芸人で、テレビにもしょっ中でているような人が実は人見知りだというのはよく聞く話だ。

自分は人見知りだ、どうしたらいいのだろうと悩む人は、仕事をし、生活をする上で不便を感じている。人見知りであっても本人がそれも自分の一部と認めて、受け入れていたら問題ないのだろう。

人見知りが過ぎて、まわりに迷惑をかけている、という人はいるのだろうか。
それだと単なる人見知り、という範囲を超えてしまうのかもしれない。

人見知りが甘えだと言い切れるのは、人見知りは本人の努力や経験をつむことで克服できる、と考えているからだ。そして、今は人前で、目線を合わせてよどみなく話しができるけれど、昔は人見知りだったという人は、経験を通して自分を表現することを学んできたということなのだろう。

ひきこもりとひとみしり。同じものだとはおもわないけれど、「脱ひきこもり」という本で気になったのは、著者が6歳までの環境と教育が大きく作用するという、その6歳という年齢というだ。

まだ幼く、心がやわらかくて、人に対する不信感や恐怖感を持たないうちに、下町など人と触れ合い、気にかけてもらうことが大きい環境で育つと、自然なコミュニケーション力を鍛えられる。人との会話を楽しむ力が身につく。

そして親が早期教育に燃えて、必ずしもその子どもが楽しんでいないことを無理にさせるようなことがなく、自然のなかで他の子どもと遊ぶ機会を作ったり、子どもが熱心になることを応援したりすると、人や自分に対する自然な信頼感が育つ。

6歳までの子どもの成長の仕方は大人の成長とは全く違う。そこには自意識がない。世界と自分が分離していない。

7歳~9歳を超えると、世界は全く違うものになる。自己意識が生まれ、他者の存在に敏感になる。

社交性を養う、コミュニケーション力を鍛えるとはいっても、6歳(またはその前後)以前にそのような機会を適切な形で与えられるのと、それ以降になるのとではずいぶん違うだろう。

思春期という大揺れの時代をどう乗り切るかも、幼児期をどのように過ごしたかによってずいぶん違う気がする。

大人になってから人見知りを克服することはできる。

取り返しがつかない、というとなんとも胸につまるけれど、取り戻せないものもあることは事実だろうとも思う。

私も子どものころずいぶん人見知りだった。引っ込み思案の内弁慶、かなり幼いうちから自分はそういう性格だと思っていた。おしゃべりなほうではなかったし、腰の重い性格も手伝って、わざわざ人の輪に入っていこうとは思わなかった。

それならそれでと大好きな物語の世界に生きていた。大勢で遊んでいても、ふっと人の目がない隙をねらって、すみっこで本に首をつっこんでいる、そんな子どもだった。小学校の文集にも自分がいかに本が好きかということについて書いた。恥ずかしくて今更読み返せないけれど・・・

思春期は社交的な友人に囲まれて、これではまずいと思うようになった。頑張らないと人と一緒にいれない自分が嫌でたまらなかった時期もある。

学生生活、教師という仕事、海外に住んだこと。ちょっとずつ、ちょっとずつ、人見知り度は減っている。それでも人の輪の中にいる自分を見ると、自然ではないと思うことがある。

ボリビアでフォルクローレのチャカレラを習っていたとき感じたのと似ている。一緒に習うボリビア人の友人が私も踊れないのよ、一緒に行こうと誘ってくれたけれど、踊れないのではない、正式な動きを知らないだけ、とわかる。自然な手足の動きにびっくりする。5歳の大家さんの孫娘の立ちポーズに負けたと思った。踊りと音楽が身体の中で息づいている。

物心つく前に、全身で世界の全てを体感しようと動き回っていた頃に、身の周りで起こっていることをなんでもかんでもマネしていた頃に、頭ではなく身体で吸収することの大切さを改めて思う。

だからといって、大人になったらもう人見知りは治らないのかというと、そういうわけではない。ただあの頃と同じようには学べない、同じ種類の社交性を身に着けることができないだけだ思う。

大人は子どもにはない理解力がある。人生を生き抜いて身に着けた洞察力がある。自らを振り返る客観性がある。子どものときに学べなくっても、大人には大人の学び方がある。学べる可能性は無限にある。

子どものときよりも苦労するのかもしれない。だけどそれは単に、苦労を苦労と認識してしまっているだけなのかもしれない。

毎日、毎日身体をひねって、よじって、一生懸命寝返りをしようとする赤ちゃんが、足をつっぱって、はいはいして、つかまり立ちをして、そしてついに自力で立ち上がる幼い子が、始めて音にした言葉から文章を話すようになるまで幼児が苦労してないとはいえない。幼児期に社交性を身に着ける子どもは大人が知らないところで学んでいる。

そして大人たちだって、かつでは子どもだった。人とのコミュニケーションを楽しむ力を上手に育まなかった代わりに、きっと何か別のものを育てているはずだ。今の時代には役に立たない、目立たない力かもしれない。例えば、静けさを愛する。一人の時間を楽しむ。

初対面の人に会うとき、人前で話をするとき、緊張を押し隠して、笑顔で明るく話す自分に、頑張ってるなあと思う。頑張りに辟易することもある。無理しすぎ。自然じゃない。本当の私じゃない。

そんなときには重たい頭を持ち上げて、直立歩行しようと一所懸命な小さい子を思い出す。
一所懸命なその子は自分をカッコ悪いと考えたりしない。ただただ無心に立とうとするだけ。

人見知り=一人を楽しむ力がある
人見知り=成長するチャンスがある。
人見知り=学ぶ楽しみがある